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集中講義4日目 - 「ファッション」ってなんだろう

さあ、京都精華大学の集中講義、

4日目は今回初めて「都市とポピュラー文化」にご参加いただいた

ファッション・デザイン批評の蘆田裕史先生です。

今回はファッションを「身体と衣服」、「流行」というふたつの視点から

お話ししていただきました!

まずはファッション論で必ずといっていいほど参照される

マクルーハンの『メディア論』と

我が日本の現象学的ファッション論の先駆者・鷲田清一さんについてご解説いただきました!

マクルーハンはわたしたちの身の回りにあるメディアを

身体を拡張するものであると定義し、

日々わたしたちが身につけている衣服もまた

生物的・社会的身体の拡張(身体保護・社会での自己表示、表象の装置)であり、

衣服は「皮膚の拡張」=第二の皮膚であると言っています。

一方で鷲田は、

マクルーハンの衣服論を批判的に継承し、

身体こそが「第一の衣服」であると定義しました。

これについて、蘆田先生が鷲田さんの衣服論では明示されていない

ラカンの「鏡像段階理論」を用いてわかりやすく解説してくれました。

つまり、赤ちゃんがお母さんの身体の部分や自らの身体の部分を断片的に経験・認識し、

自己イメージをこれらの断片から縫合していくように、

わたしたちはわたしたち自身の身体というイメージをまとっているということなのです。

しかしながら、

これらのような実体を持つ身体と衣服というふたつのレイヤーがあるという前提では、

インターネットが普及しドラスティックに身体の感覚が変化した、

現在の身体と衣服の関係は語れないのではないかと蘆田先生は指摘します。

ここで例に出していただいたのが、

ガンダムの「モビルスーツ」とエヴァンゲリオンの「プラグスーツ」です。

これがガンダムで、

これがエヴァンゲリオン。

「モビルスーツ」は操縦者の身体の外側に属するものですが、

「プラグスーツ」は攻撃を受けると操縦者の身体にも影響を与える、身体と同一化したものと考えることができ、奇しくもエヴァンゲリオンはwindows 95が発表されたのと同時期の作品というのも面白いですね。

その後普及するインターネット上の仮想空間で、

アバターを着替えさせカスタマイズすることが自己表現の形になってくると、

顔や身体などの実体を持ったものでなく、

身につけるもの=衣服がアイデンティティを確立する手段として定着してきており、

マクルーハンの衣服=「第二の皮膚」、鷲田の身体=「第一の衣服」の理論とは異なる、

「潜在的(ヴァーチャル)身体としての衣服」の考え方が有効ではないかと蘆田先生は提唱されていました!

また、ファッションを語る際に見落とせない「流行」についてのお話も、

東京ガールズコレクションの群衆心理を組み込んだシステム(会場でその場でインターネットで注文できる)や、

雑誌で断言・反復される流行のアイテムを煽る方法などから、

群衆の中で「模倣」し「感染」していく欲望についてがよくわかりました!

講義後の議論では室井先生から、

鷲田さん以来、結局は衣服=インターフェースであるという論点は変わっておらず、

衣服と身体の関係についてなにが今言えるのかという厳しいツッコミが。

たしかに、ファッションは視覚文化の一要素でありながら、

近代以降、消費社会の枠組みの中で記号として消費されてきたものでもあります。

しかしながら、現代の(ポピュラー)カルチャーを語る上で、

マーケットの存在は見過ごせないものだとも思います。

変わってゆき、毎シーズンごと塗り重ねられてゆき、

「装う」ことと「着る」ことが分離しているようで、

でも身につけている衣服はおおよそ柔らかくて壊れやすいモノで、

服を着るのは「スタイル」なのか、「こだわり」なのか、

「ファッション」ってなんなのか、日本語の「お洒落/オシャレ」って何?だとか。

講義後、その後の飲み会でも議論は絶えませんでした。

だからこそ、今、いろいろな視点から考察できるということもあり、

ファッション研究はとっても面白いものなんだとおもいます!

今回の授業でファッションについて関心を持った1年生もたくさんいるようなので、

みんなでまた議論ができるといいですねー :)

蘆田先生、ありがとうございました!

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