『日本の反知性主義』レヴュー

野口直樹(都市イノベーション学府建築都市文化専攻M2)


 

 「知性」について語るとは、どういうことなのか。『日本の反知性主義』は内田樹氏が「反知性主義」をテーマに10人の論考を編んだアンソロジーだ。企画の発起人でもある内田氏は序文と名越康文氏との対談、そして本書内で最長の論考を担当している。

 反知性主義とは一体何だろう? 内田氏によれば、ある内容が腑に落ちたかどうかを既存の権威ではなく自分の内側を見つめて判断できる人、単に知識を受け取るだけでなく自分の枠組みを絶えず更新できる人こそが「知性」を持った人物であり、その対極が反知性主義だ。内田氏の本を読んだことがある人にとっては、おなじみの論法でもあるだろう。精神分析と武道の理念をしばしば用いる内田氏は、物事の因果を越えた側面を重視する。全ての物事が、原因から結果まで順当に積み上げられて完成する訳ではない。証拠が積み重なっていなくても、真実がフライングしてひらめくことがある。知性の本質は、先駆性・直観性にこそ宿るのだ。

 この主張は慎重な証拠の収集や時間の積み重ねをないがしろにしているように思えるが、そうではない。むしろ時間性こそが知性を知性たらしめている。「ひらめき」とは何もないところから正解が独りでに湧いてくるものではない。フェルマー予測が360年のときを経て証明されたのは、多くの人がその先駆的な直感を信じ続けたからだ。時間の経過によって、やがて完全に白日の下に晒されるという信頼。死者やこれから生まれてくる人々を含めた社会との恊働関係をイメージできるからこそ、「巨大な知の氷山の一角」に触れた感触として人はひらめきを直感できる。知性は個人的ではなく、集団的・社会的なものでなければならないのだ。

 これは室井氏が『文系学部解体』で述べている「知」の在り方に限りなく近しい。いま・ここの価値ではなく連綿と続く文脈を重視する室井氏も、時間性としての「知」に注目している。すぐさま「役に立つ」情報ばかりを重視した改革が文系学部の軽視につながっていと主張する『文系学部解体』と、マーケットの上に成り立つ株式会社であるかのように振る舞う現在の国家を、そして無時間性こそが反知性主義の本質だと結論づける本論はまさにパラレルな関係だといえるだろう。

 とはいえ、大学という具体的な事物を対象にした『文系学部解体』に対して、「知性」そのものを軸に論を展開する本論にはなにやらモヤモヤとした釈然のなさも残る。例えば、本論では紙幅の都合もあってか内田氏が「現在の国家が株式会社化している」と考える根拠は明示されない。反知性主義について語ることの難しさは、知性の側に立って反知性主義を批判する姿勢がそのまま反知性主義的になってしまう点だ。

 内田氏のお家芸でもある「直感的な判断」は、ともすれば彼が批判する反知性主義的な姿勢にも簡単に転じ得る。先駆的な真実の直感は、行為のレベルでは表層的な決めつけとと区別できないからだ。本論冒頭にも述べられているように、知性主義と反知性主義はまさに表裏一体の関係だ。本書に寄せられた論考には「自分には反知性主義が分からない」と前置きながら筆を進める論者も少なくない。あまりに多様な視点から反知性主義について書かれた本書の構成自体が、そのまま反知性主義の複雑さを表しているといえるかもしれない。反知性主義は、あまりに簡単に私たちの思考に侵入する。内田氏のスッキリした論理展開に膝を叩いてしまった瞬間にこそ、まさに読者は自身が反知性的になっていないか省みるべきなのだ。