要約して噛み砕いてみた(内田先生篇)
横浜国立大学都市イノベーション学府建築都市文化専攻M2 野口直樹
初めまして、時々こんにちは。横国M2の野口です。
前回に引き続き6月16日に開催されるイベント「文系学部解体―大学の未来」をノーギャラで紹介するこの文章、今回ははるばる横国までおいで下さる内田樹先生の著書『日本の反知性主義』をさっくり要約します。
……とはいったものの『日本の反知性主義』はかなり読みやすい文章だし、「さっくり」とかいったけどそもそも前回の文章、内容がないようなのに4000文字もあってもう要約じゃありません。4000文字って、ちょっと大変なレポートレベルじゃん!学部生のみなさんには、よー分からんネタやクドクドした言い訳を挟めば文字数なんていくらでも盛れることをぜひ覚えてほしい。
という訳で前回にも増して「いやもう僕いらないでしょ」感しかない状態です。しかも最近は湿度がバカ高くてポテチがすぐシケるし、『HUNTER×HUNTER』ではなんと〇〇が××しちゃったし、アメリカでは罪もない子どもが1時間で3600秒を過ごしている……。この世に救いはないのか。。ああ、救われたい、愛が欲しい。。愛をください……。
かれこれ1時間も「Zoo 愛をください」をリピートしており一向にページが埋まりません。
最近、そのときの感情が歌詞に入った曲を延々リピートするのがマイブームです。なので、「疲れた……死にたい……」と思った時にはaiko『花火』のサビ前「つかれてるんなら やめれば〜」を聞き続けるし、「ああ、やっぱ自分って神だな」と思った時は鬼束ちひろ『月光』をリピートすることになります。
とかどうでもいいこと書くとまた文字数ばかり増えるので、本題に戻ります。
内田樹編『日本の反知性主義』です。
この本は「反知性主義」というワードをテーマに内田先生ら10人の識者が文章を寄せたアンソロジー。
作家から医者、科学者にビジネスマンまでそうそうたる面々が文章を寄せた知の結集……なんですが、どの文章も読みやすくていいこと言ってるのに、全て読み終わるとなんだかモヤッとしてしまう不思議な本です。例えると。
全ての文章に触れると修論が書けるくらいの文量になりそうでほんと勘弁してくださいなので、ここでは内田先生の文章を見てみましょう。
まず、本書のタイトルにもなっている「反知性主義」ってなんでしょう?
「反知性主義」とは単なるバカを指す言葉ではありません。
内田先生がいうには、「知性」とは物事の正しさをいわれている通りを鵜呑みにせずに自分の内側から判断できる人、知識をそのまま受け取るのではなく絶えず自分の知の枠組みを更新していける人のことです。この反対が「反知性主義」だそうです。
……うん、何言ってるか自分でもわからなくなってきますね。。とはいえ、ここで「つまり知性とはこういうことだよ!」とスパっと説明することはできません。なぜなら、そうやってわかりやすい説明を提供することこそが、まさに「反知性主義」だからです。あと、変な説明をしたら僕が内田先生にめっちゃ叱られそうだからです。
だからベタに文章を追うのは辞めて、内田先生がどんな人なのかを見てみましょう。
(これを人は「テクストから逃げる」といいます)
内田先生はレヴィナスなどフランス哲学の研究者でありながら合気道7段を持ち現在も道場の顧問を務める、まさに文武両道の人です。
しかも公式サイトに載っている2003年以降の著書・共著・訳書だけでもその数100冊以上(すいません、多すぎて数えるの断念しました)!!現在もTwitterやBlogをガンガン書いている恐るべき筆記モンスターです。
おそらく前世はタイプライターだったはず。
まさに文筆界の超大物な内田先生ですが、作風には彼の経歴が色濃く表れています。政治から文学、宗教から女性といった様々な問題を武道と哲学の合わせ技で斬っていくのです。例えば、理屈を超えた体感で反応しないと勝てない武道の実践や、原因が結果の後から判明する精神分析治療などなど。
それを踏まえると、さっきの長々しい「知性」の説明もすんなり飲み込めるはず。つまり、知性とは「学問の歴史ではこういうことになっているんだよ」と難しい知識をぶつけられても「へ〜そうなんだ」と納得せず、自分の体感をもとに「本当にそうか?」と立ち止まってみることです。
とはいえ、単に疑えばいいってわけでもない。逆に新しい知識を「いや、それは自分の知っている知識とは違う」といって切り捨てずに、それをどうやって自分に取り込めるか考えることでもあるんです。
内田先生はこれらを一言でまとめて、「知性」とは集団的なものだといいます。さっきまでの説明だと、何でも自分の頭で考える=ありがちな個人主義の説教にみえるけど、そういうことではないらしい。
なぜ自分の直感を大切にすることが集団的な知性なのか? その例として、内田先生は証明に360年もかかったフェルマー予想を挙げます。
ちなみにフェルマーの時代頃からかつら(ウィッグ)が普及し始めたそうです。
フェルマー予想とは、アマチュアなのに超天才な数学者フェルマーが残した定理。ところがフェルマーは「証明した」といいながら、そのプロセスを残していなかったのです。
結局、360年もの時を経てフェルマー定理は証明されたのですが、なぜそんなことが起こったのか? フェルマー予想の証明がめちゃ難解だったからといってしまえばそれまでですが、それはこの予想が科学という「知的営みの集団の場」に投げ出されたからです。
多くの人がフェルマー予想を信じ続けたからこそ、360年の時を経てそれは証明されることになった。フェルマーはプロの数学者に向けて「オレは証明できたけど、お前にこんな証明出来ないでしょwwwww」みたいな挑戦状を送っていたそうですが、これは見方を変えればこうした「公の」場に送ればきっと誰かが自分と同じ答えに辿り着いてくれると期待していたといえるでしょう。
内田先生がいっている「直感的な知性」もこれと似ています。「細かな証明方法まではわからなくてもきっとそのうち誰かが解き明かしてくれるはず」と思えるからこそ、「巨大な知の氷山の一角」に触れたような感覚としての直感的なひらめきが生まれるのです。
だからこそ、一見独りよがりに思える「直感的な知性」は「集団的な知性」とつながります。これは、前回の『文系学部解体』でむろにゃんが主張した「自由な知」とそっくりです。「自由な知」とは、歴史や文脈を把握することで「自分が如何に自由でないか」を知ることでした。自分がいる環境を広く長いスパンで捉えるという意味ではどちらも同じ。内田先生は、それを知ることこそが新たなひらめきの源だと言いたいのではないでしょうか。
では、なぜ内田先生はこんな論考を書いたのでしょうか? それは、まさに現代がこうした「知性」を失った時代、つまりは「反知性主義」の時代だからです。内田先生は本稿の後半で、近年の日本国家は株式会社化しているといいます。ここでいう株式会社とはマーケット、つまり四半期ごとに目に見える形で評価される存在だということです。しかし、政策の良し悪しはそんな簡単に測れるはずがない。
結論として内田先生は、「反知性主義」をその無時間性、「いま・ここ」にしか注意しない存在だと結論付け、論を締めくくります。僕には、この主張が正しいかどうかはそう簡単に決められそうにありません。しかし、強いモヤモヤを感じてしまったことだけは事実です。
例えば、紙幅の都合かもしれませんが本稿では内田先生が現在の政治を株式会社だと考える根拠などは語られません。この比喩に納得できないわけではないどころか思い当たる節もいくつかはあるし、痒い所に手が届くような内田先生の表現にハッとさせられてすらいます。だけど、「反知性主義」を扱う本稿でこの手段は正しいのでしょうか?
正しい吟味もなく何かを勝手に決めつけて批判する行為(そもそも、どんな手順を踏めば「正しい吟味」になるのでしょうか?)こそ、まさにこの文章で批判されるべき「反知性主義」そのものです。ここから、「反知性主義」について語ることが如何に難しいかが見えてきます。だって、何かを決めつけてしまう反知性主義を批判した瞬間、批判相手を反知性主義として決めつけてしまうことになるからです。
もちろん、「決めつけ」にならないための手続きはいくつも存在するでしょう。まさにそれこそが、集団の知としての科学です。とはいえ、その手続きを短い紙幅でこなすのは簡単じゃありません。また、内田先生が書く文章の良さは、だらだらと細かい証明をするのではなく、明快なロジックや奇抜なひらめきで世相を斬っていくところにあるのだと僕は思っています。だから、いつものように今回の文章もとても楽しく拝読しました。読んでいるときはスッキリしたはずなのに、読んでからしばらくすると何ともいえないモヤモヤが湧いてきたのです。
本文の冒頭で内田先生が引用しており、本書のタイトル元にもなっているリチャード・ホーフスタッター『アメリカの反知性主義』にも書かれているように、知識人と反知性主義、知的情熱と反知識人は表裏一体。反知性主義を指さした瞬間にこそ、自分が反知性主義に陥っているかもしれないのです。
本書に寄せられた文章の中に「反知性という言葉が、私にはわかりません」「反知性主義という言葉は、実に捉えどころがない」といった、「反知性主義」というテーマに対する戸惑いが見え隠れしているのも、こうした難しい状況を反映した姿勢なのではないかと思えてしまいます。
もちろん、こうした素朴な姿勢ばかりが正しいとは僕も思いません。それでも、反知性主義を語るのがいかに難しいかが伝わってくるはずです。
いまちょうど「Zoo 愛をください」のリピート再生が50回目に到達して、そろそろ「あ〜菅野美穂〜」以外の言葉が思いつかなくなってきたんですが、この曲には”ほらね そっくりなサルが僕を指さしてる”という歌詞があります。愚かでずる賢い動物園=人間社会だけど、それを覗けば覗くほど、彼らと自分の違いがわからなくなってしまう。人間と動物、愚かさと賢さをどうやって区別すればいいかわからない。そんな中で生きていく苦しさを歌っているんじゃないでしょうあ〜菅野美穂〜……あ、そろそろ限界なので今回は失礼します。
というわけで、6月16日「文系学部解体―大学の未来」、よろしくお願いします〜。
追伸:
『日本の反知性主義』のレヴュー、要約のお固いバージョンありますので、
お時間ありましたら、そちらも読んでもらえると嬉しいです。