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『文系学部解体』レヴュー

横浜国立大学都市イノベーション学府建築都市文化専攻M2  野口直樹

 

日本の知が崩壊する...。

 本書の帯にタイトルよりも大きく掲載されたセンセーショナルな言葉からも分かるように、そこで扱われているのは2015年6月に物議を醸した文系学部をめぐる一つの「事件」であり、そこで交わされた「知」のあり方に関する議論である。「知」とは何なのか? 「知」と大学はどのように関わってきたのか、あるいは関わるべきなのか? 20年以上の長きにわたった国立大学に勤めた著者が、その実情を内部から告発する。

 「事件」の発端になった「国立大学法人等の組織及び業務全般の見直しについて」という通達をめぐって、大手マスコミからは「文系学部の崩壊」「戦前の思想弾圧」といった痛烈な煽り文句が飛び交い、文科省側からは「文系を軽視したことはない」などの反論が提出された。しかし、大学側からすればこれを言葉通りに受け入れるのは難しい。十分な精査も交わさないままにほとんど一方的に各大学の「ミッション」を再定義し、それに従わない大学は廃止される可能性すらあると宣告した今回の通達は、明らかに文系の縮小を意図したものとしか理解できないからだ。

 そもそも、文系縮小という話は今回の「事件」を皮切りに始まったわけではない。それは1991年の大学設置基準大綱化から一貫している流れであり、そこに通底するのは大学運営の市場原理への開放だった。大学数の大幅な増加をもたらした原因でもある大学設置基準大綱化(1991年)、大学の統廃合、ランク付けによる重点的な予算配分に踏み切った遠山プラン(2001年〜)、国立大学法人化(2004年)といった一連の改革は、大学を一般企業のような自由競争にさらすことで、その質を高めようとするものだった。しかし、今回の「事件」からもわかるように、あたかも民営化のような形で自由な経営を許可されたと思われている国立大学は、実は一方では、その反対に文科省の定めた「ミッション」に従うことが求められた。今回の通達は、国立大学に対して、文科省が一方的に経営方針を押しつけたものだと言えるのである。

 著者が1992年にいわゆる「教員養成系新課程」と呼ばれる横浜国立大学の「総合芸術課程」に赴任した際には、志望者の多さにもかかわらず、ほとんどの授業は教員養成系の教員が片手間的に担当、非常勤講師の枠もほとんど配分されていないなど惨憺たる状況だった。著者の声かけも合ってあってこの事態は問題視されるようになり、1997年には「教育人間科学部」に改組、著者の所属する「マルチメディア文化課程」には劇作家の唐十郎氏やドイツ出身のマンガ研究者ジャックリーヌ・ベルント氏などを招聘しユニークな教育を実現、卒業生も様々な領域で活躍するようになっている。その後「人間文化課程」に改組(2011年)した後も独自のカリキュラム・講師陣で学生・社会からも好評を博していた。今回の通達はそんな中での決定であり、こうした成果が評価されることもなく、人間文化課程は平成28年度入試で学生募集を停止し、新しく設置される「都市科学部都市社会共生学科」と「環境リスク共生学科」では学生定員が大幅に縮小されてしまう。

 人間文化課程のようなゼロ免課程、さらにいえば人文学系の多くは「グローバル人材の育成」や「文理融合」、「社会貢献ができる人材」というような文科省の掲げる「市場価値」を持たない学部・学科として文科省から「見直し」を迫られている。なぜこうした学部が不要だと判断されるのか? 著者はフランスの哲学者リオタールを参照し、文科省が大学で提供されるべきだと考えているのは、役に立つかどうかのみで価値が決定される「情報としての知」だからだという。リオタールは現代の特性を、全ての知がいまを生きるために役に立つ「情報」としてのみ判断される「知の情報化」の世界だと評した。しかし、人文系が与える「知」はこれとは正反対である。人文系の「知」は目の前の問題を解決するのではなく、問題そのもの存在理由や起源を問うものだと著者は主張する。有用性のみを求めるいまの「情報」に対して、「知」は歴史を思考し、意味と文脈を作り出す。なので著者は、人文系の「知」は役に立つものではないとあっさり認めている。しかし、だからこそ「知」を保存できる場は大学を除いては存在しえないのだ。

 だが、著者は大学を知を保存するだけの研究機関にすべきだとも考えていない。大学を動かしているのは文科省でも学長でもなく、具体的な学生と教員たちだ。だからそこでは彼らが向き合うことで、予定調和ではない新たな文化が生み出されるべきなのだ。その一例として著者は、自身が横浜国立大学の学生たちと行ってきた野外演劇、映画上映といったワークショップを挙げる。それは役に立つかどうかが問われることはない、全くの異質な「他者」同士が出会う場なのだ。

 一方で、こうした活動は前述のような人文的な「知」とは正反対にもみえる。役に立つ訳でもない「貴重な体験」としてのワークショップは、一見歴史や文脈とも切り離されたものにも見えてしまうからだ。しかし、ここにこそ著者の考える「知」の本質が隠れている。どんな価値があるのか分からない、ともすれば遊びに見えるかもしれない活動は、見方を変えれば文脈を欠いた情報しかない社会との戦いに転じうるのではないだろうか。市場価値から一線を画した「差異」と「多様性」に溢れた活動に接することで、世界に自分と違った考え方や価値観が存在すること、つまりは多様な歴史や世界観を知ることができるからだ。大学で学ぶべきは「自由な知」だと著者はいう。それが人が何者にも囚われない存在だということではなく、常に何かに縛られた存在だと知ることなのである。そして、これこそが文脈としての「知」であり、資産や市場価値に依存しない形で人生に自由を与えてくれるものなのである。

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